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友人に誘われてグリークラブに入団

堀田 本日はオペラ歌手として世界的に名を馳せられた、岡村喬生さんをお招きしました。 経歴を拝見して驚いたのですが、岡村さんは、もともとジャーナリストを目指されていたそうですね。
岡村 新聞記者になりたくて、早稲田大学政経学部の新聞学科に入学したのですが、大学で隣に座った学生が「おれは合唱がやりたくてこの大学に入ったんだ」っていうんでね。
堀田 それはまたおもしろい動機ですね。
岡村 ぼくは大学に入ったら弁論部に入ろうと思っていたのですが、その学生が早稲田の男性合唱団「グリークラブ」に入ろうとしつこく誘うので、練習を見に行ったんです。当時は合唱なんてまったく興味がなかったのですが、歌を聴いたらびっくりしちゃってね。「こりゃあ、おもしろい」と興味がわいてきたんですね。
堀田 それで歌の道にすすまれたわけですね。
岡村 グリークラブで歌っているうちに、おれにもこんな演奏ができるのかと、すっかりハマってしまいまして、それからは授業に出席せずに合唱ばかり歌っていました。
 卒業後はNHK専属の東京放送合唱団に入団して、プロのオペラ歌手を目指し、28歳のときにイタリアに留学しました。 。

オペラはその国の文化度を測る最大のバロメーター

堀田 岡村さんは海外で長く生活されてきましたが、外から見て日本のオペラをどう思われましたか。
岡村 まだまだ、という感じがしましたね。日本のオペラの歴史は、まだ浅くて、作品もひじょうに少なかったからなんですね。
 オペラが最初に誕生したのは17世紀初頭のイタリアで、当時のオペラはすべてイタリア語で上演されていました。その後、“オペラというものはその国の作曲家がその国の言葉で、その国の物語をつくるべきだ”という「国民オペラ運動」がヨーロッパで起こり、ドイツやチェコ、スペイン、ロシアなどの各国では、母国語を使った「国民オペラ」が上演されるようになりました。しかし当時の日本はペリーが来航してやっと鎖国の眠りから覚めた状態でした。オペラなんて当時の日本人は誰も知らなかったわけですね。
堀田 日本でオペラが一般的に知られるようになったのは、大正時代に入ってからだそうですが、その後も日本に作品が生まれてこなかったのはなぜなのでしょうか。
岡村 オペラが日本に入ってきた当初は、東儀鉄笛の「常闇」や小松耕輔の「羽衣」など、日本独自の作品が作られた時期もありました。しかし第二次大戦後、海外からさまざまなものが輸入されるようになると、オペラも海外から輸入するだけで、自分たちで創るという努力をしなくなってしまったんですね。日本も「国民オペラ」を創らなければいけなかったのに、そうした意識がたりなかったのだと思います。
堀田 むかしは見る人が理解しやすいように、外国の作品を日本語で上演する劇団もありましたが、海外のものを日本語で上演しても歌詞がよく合わないんですよね。そういう意味でも、日本の歴史や風土を盛り込んだ、独自の作品があるといいと思っています。
岡村 まったくその通りですね。ぼくが海外に住んできて思うのは、オペラは、その国の文化度を測る最大のバロメーターであるということですね。日本もオペラを通じて「おれたちの文化はこんなにすばらしい」と、世界に、もっとアピールするべきだと思っています。

「新聞記者を目指していましたが、
友人に誘われて歌の道に…。」

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