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FUKUSHIMAを自分に重ねて感じてほしい

堀田 2012年1月に写真集「福島 FUKUSHIMA 土と生きる」を出版されましたが、福島にはいつごろ行かれたのですか。
大石 震災後、すぐに被災地に行きたかったのですが、震災の大きさに強烈な衝撃のなかで、体調を崩して身動きできなくて、福島を訪れることができるようになったのは2か月ほど過ぎた5月2日でした。
堀田 この写真集にも多くのことばが書かれていますが、なかでも心に残ったのは、歌人の佐藤祐禎さんが詠まれた「原発が来りて富めるわが町に心貧しくなりたる多し」という歌。ひじょうに切実で胸に迫る歌ですよね。

「私が受け入れてもらえなければシャッターはきりません」
大石 佐藤さんは、原発の1〜4号機のある大熊町で生まれて、農業をされてきた83歳の方ですが、震災後1年2か月が過ぎた2012年の5月に避難後、初めて家に帰られたんです。そのときに「放射能降るなか腐れてゆく家のシロアリどもを道連れとして」、「ああ今日がわが家の今生の見納めか先祖の位牌抱きて帰る」といった歌を詠まれて、拝読してほんとうに胸がつまりました。
堀田 テレビや新聞の報道というのは、どうしても訴える力が限られてしまいますけれど、この写真集は単なる写真集という域をはるかに超えて、被災者の心の奥底を伝えています。だからこそ読む人の心に重く響くのではないかと思いますね。
大石 私は単なる写真集でもいいと思っているんです。でも読者には「ここに写っている、名はあるけれどもあまり知られていない人たちは、写真を見ているあなたでもあるんですよ」という思いをぜひ感じてほしいんですね。
 もしかしたら、この人たちは自分であるかも知れないと、自分に重ねて見ていただけたらと思います。

フォトジャーナリストとしての責任

堀田 これまで多くの国や地域を取材されてこられましたが、フォトジャーナリストとしてなにを一番大事にされていますか。
大石 一つはカメラというのは、どうしても相手の心を傷つけてしまうことがありますので、できるだけ相手の生活を傷つけないように心がけることです。それとフォトジャーナリストとしての責任といいますか、読者に対して「もしかしたら、私は間違っているかもしれないけれど、これは私がつかんだほんとうのことですよ」と、責任をもって伝えることをたいせつにしています。
堀田 最後のことばは、ひじょうに大事なことだと思いますね。報道というのはいい加減ではいけない。一枚の写真が与える影響力はたいへん大きいですからね。
大石 喜びであれ、悲しみであれ、怒りであれ、その人たちが抱えている思い、真実をきちんと伝える。それがフォトジャーナリストとしての私の役目ではないかと思っています。

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